今年の夏は、うだるような暑さが続き、熱を蓄えた鉄筋コンクリートの壁により、私の部屋のクーラーは19度設定にもかかわらず、サウナのような状態だった。
熱帯夜で、2台連動タイプのクーラーは音がうるさく、扇風機で部屋の空気をかき混ぜていても風は生暖かいままで、いつも汗をかきながら、熟睡もほとんどできない毎日を過ごしていた。
数日前のこと。
トイレに行きたくて、目が覚めた。
ベッドに入って、まだ1時間くらいしか経っておらず、時計は真夜中の0時40分となっていた。
珍しいこともあるもんだな、と思いながらトイレから戻ってくる。
ベッドに横になると、身体は疲れているのに眠れない。
蒸し暑さとクーラーの音が気になり、何度も寝る体勢を変えてみる。
しばらくすると、ようやく眠気がやってきて、まどろみ始めた時、下の階で物音がしていることに気がついた。
時計の表示は、2時30分。
夜中に玄関や各階の窓が開くと警報が鳴るようになっているが、それらは一切聞こえない。
それにベッドにいながら、下の階の廊下を黒い塊のようなものが進んでいる様子が見えている。
これらの状況から、明らかに人間ではなく、目では見えない世界からの者だ。
この日は同居人がおらず、家には私一人だけだった。
何者かが廊下を歩いているような足音がしていて、やがて階段を上がってくる音へと変わっていった。
やばいな、ここに来ると思った時には、すでに真っ黒な大きな影が私の身体へと覆いかぶさっていた。
クーラーをつけている為、部屋は密閉状態だ。
それなのに影は、階段から一瞬にして部屋へと入り込んでいる。
その影は、先端がうずまきのような形になったり、全体が伸びたり縮んだりを繰り返したり、自在に動き回った。
私の身体は、影によって羽交い絞めのようになっていて、動くことができず、左耳はジェットコースターにでも乗っているかのような轟音がしていた。
部屋のあちこちで、ラップ音もしている。
ベッドの半分には、縦半分に折った掛け布団やタオルを置いていて、もう半分の場所で、何もかけずに仰向けで寝ていた。
その為、パジャマを着た身体の上に直接、大きな影が覆いかぶさり、うごめいている状態だった。
それはとても重く、私の身体から生気が吸い取られているような感覚があった。
その影の中から、男性と犬が見え始める。
どちらも影絵のような見え方で、ツバのある帽子をかぶった男性と大型犬だった。
本能的に、この影に捕らわれてはいけない、と思い、身体が少ししか動かないながらも必死に抵抗を試みた。
目では見えない世界の者と対面した時、霊の場合でも、言葉を交わさずとも感情や死因などの情報が伝わってきたりする。
この影から伝わってきたものは、どこまでも広がる闇のような映像と陰湿な黒い感情のようなもので、今までの霊体験などとは比べ物にならないほど、危険に思えた。
この影の男性は、生前は人間で、死後、霊になったというものではない。
説明が難しいが、しいて言うなら悪魔や死神のような類のものだ。
いつの間にか、私の身体は掛け布団にくるまれていた。
そして、影はベッドの右側へと移動していて、掛け布団ごと私をベッドから床へと落とそうとしていた。
床に落とされた時点で、魂が連れて行かれる。
なぜか、そう思えてならなかった。
ものすごい力で引っ張られる中、落とされないようベッドにしがみつきながら、私は知っている、わずかな数のお経をくり返し唱えた。
ごぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ。
部屋全体に轟音が響き、ラップ音は激しく、ベッドが左右に揺れ始める。
右側から影が掛け布団を引っぱるが、抵抗する私に加勢するように左側へと引き戻してくれる力があった。
私の身体も激しく左右に揺れる。
頭から生気を取られているのか、何度も意識が飛びそうになった。
感覚としては、10分くらい戦っていた気がする。
突然、部屋から影が消え、ラップ音と轟音がなくなった。
ベッドはしずまり、掛け布団は元の場所に置かれていた。
何事もなかったかのように、部屋はいつもの状態だった。
私だけが、いつも以上に汗だくとなり、全身に力が入らないほど疲弊していた。
だが、連れて行かれなくて良かった、という安堵感が広がっていた。
私の守護霊やお経によって、助けていただいたようだ。
私がベッドから落ちないよう、掛け布団の左側を引っぱっていただいたおかげである。
もうクタクタで、睡魔と戦いながらも、生かしてもらえたことへのお礼を守護霊などに伝えてから眠りについた。
朝、いつも通り、目覚ましの音で起きた。
真夜中の格闘と蒸し暑さとで体力は消耗していたが、朝食後、家の中をモップがけすることにした。
廊下を掃除していたら、私の部屋に置いてあったスマートフォンが鳴り、バイブの振動があった。
平日の午前中に電話をかけてくるとしたら、たぶん母だろう。
私は勝手にそう思い、荷物を移動させながらモップをかけていたこともあり、落ち着いてから折り返しの電話をしようと決め、掃除に集中した。
掃除が終わり、スマートフォンを見てみる。
えっ!?
着信の表示が、全然ない。
確かに着信音が鳴り、バイブも作動していたのに。
こんなことってあるのだろうか。
母に電話をして尋ねてみると「電話していない」との回答。
では一体、誰からの電話だったのか。
これも、昨夜の出来事と繋がっているのか。
久しぶりにゾッとした夜ではあったが、どこからやって来たのか、なぜ来たのかがハッキリとしない得体の知れない者だった。
影のこと、電話のこと、考えれば考えるほど、わけがわからない。
常日頃、私は死に対して恐怖はなく、むしろ楽しみにしている。
この世の修業から解放される死が来るまで、私は懸命に生きようと思っているが、今回のように、目では見えない世界からの得体の知れない者によって、変死するのは望んでいない。
あの日以降、影は現れていない。